ゲシュタルトの祈りを依存気味の人に読んでもらいたい
ゲシュタルトの祈りをご存じだろうか?
ゲシュタルト療法の中心的な詩だ。
この詩は冷たくも感じるがある意味の暖かみも感じる。
今日はそれを紹介したいと思う。
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
みなさんはこの詩をどう思っただろうか?
私は運命的なものをうまくアプローチしていると思った。
自分の人生なのだから自己中心的にいいけど、私も自己中心的でいい、でもお互いに楽しめるならそれは良いことで、別れるのも良いことだ。という意訳を勝手にしている。
一種のポジティブシンキングに見える。
付き合いの長い恋人たちのように感じる。
メンヘラのようになっている人は今一度考えてみよう。
この詩を受け入れられないとしても、それは素晴らしいものだと思う。
この詩を受け入れた人も、それは素晴らしいことだと思う。
生きるために働くというのは間違い
おはようございます。
たぶんこの記事が投稿される頃私は布団だと思います(投稿予約記事)
さて、本題に入りますが、あなたは何のために生きてますか?
多くの日本人はこう言います。
「それなりの生活を送るため」
それなりの生活というのは、なあなあで勉強して、たまに耐えて働き、それを越えた後の娯楽だと皆は言います。
そう、それを越えた後の娯楽というのがおかしいのです。
これは私の親から言われた言葉なのですが、「生きるために働く」
これほど意味不明な言葉があるでしょうか?
ええ、もちろん、この言葉自体表面は間違っていません。
ですが、 逆算のスタートラインが間違っているのです。
「生きるために働く」という言葉には「何のために生きる」が含まれていません。
ただ生きているだけでいいのですか?
あなたは精神病院の閉鎖病棟で生涯を過ごしてもいいのですか?
娯楽のない空間で音さえも入ってこない、死ぬまで壊れそうな心を抱える生活でも?
そう、楽しくなければ意味がないんですよね。
生きるのは、面白さを求めるためなんです。
苦しむために生きてる面を被った人が多いんですよ、日本って。
「楽して生きてはいけない?」
いいえ、楽して生きて人一倍楽しむ方がいいではないでしょうか。
楽して生きるための犠牲はつきものですが、生きるための苦しみは不要です。
日本人が会社をやめれないのって、「家族や同僚に迷惑がかかるから…」なんですよね。
この考えはバカです。家族や同僚といったのはあくまでも他人です。家族でも。
家族なんて自分じゃないんですから、迷惑かけていいんですよ。(もちろん、犯罪などは論外ですが。)
生きるためにやめれないという方は、資本主義の観点から見たら糞みたいな生活保護というシステムを知らないのでしょうか?
ベーシックインカムがあれば会社もやめやすくなるのではないでしょうか。
たぶんみてるほとんどのみなさんが生活保護とか大層なこといってんじゃねーよと思ってると思います。
だって保護ですからね。偉そうに。
ベーシックインカムができれば自殺も減ると思いますよ。老若男女問わず。経済はわからないので机上の空論なのかもしれないですが…。
宝くじを買う人ってそんな心境なんでしょうね。
金当てて女たらして楽していきてーって。
そんな気持ちを誰にも言えないのが日本なのでしょう。
俺も、有り金全部使ってたらして死にてーな…
まあ、考え方を変えるだけで心に余裕ができますよってお話です。
会社などで鬱になった方はとりあえず休職しましょう。
楽しくないのに生きてても意味ないですから…
大阪北部地震で見るフェイクニュースの拡散とその後の反響
この前大阪北部地震がありました。
その際、このようなデマが大変拡散された。
6月21日にM10.6の地震がくる。
もちろん来るはずない。
だが、このツイートは大きく拡散された。
なぜなのか、私は一種のチェーンメールのようなものだと推測する。
「怖いから、みんなにしらせよう。」
このような心理があるのではないか。
RTして多くの目につき、不安にさせる、負のスパイラルなのだ。
大きく拡散されたが、実際にその時間対策を行った人はいるのだろうか?
予言者は愉快犯であり、RTが餌である。
フェイクニュースは20倍の拡散速度だ。
誤情報は20倍速く拡散 ツイッターの投稿分析: 日本経済新聞
情報の正確性よりも速達と内容の面白さが重要なのであろう。
人は皆と共有したがる。例え人を不安にさせるとしてもだ。
「彼氏/彼女がほしい、かまってほしい」という感情もその一種ではないだろうか。
また、私がこのブログを書いていること自体、かまってほしいという欲があるのではないか…
本題から脱線したので話を戻す。
実際に地震がこなかった後の反応が面白い。
「騙すな!」「嘘つくなボケ」「心配して損した死ね」
このような声が多く見られた。
これは実際に起こると思っていないからではないか。
本当に予言を信じているならば安堵の表情を浮かべるはずだ。
嘘を嘘と見抜けない人がネットを使うのは難しいというが、これはまさしくそれを現していると言える。(だからと言って嘘を肯定するわけではないが)
Wikipedia並に出典を求めることもないが、信頼できるソースなのかを確認する教育が必要だ。
そして、人は損をしていないのにも関わらず、感情を消費してしまっているということに向き合うべきだろう。